世の中には、お金さえ儲かれば、話題性さえあればどんなにモラルから逸脱するようなことでも商売にしてしまう人々がいる。
たとえば、社会に大きな影響を与えた殺人犯が、更正らしい更正もせずに私たちの日常に戻ってくることがある。
こういうイレギュラーな存在に接触し、出版を持ちかけるような媒体があるが、こういうのはまさしくお金のために悪魔に魂を売ったようなものと指摘されても仕方がないはずだ。
少なくとも僕はそう考えている。
もちろん、社会に重大な影響を与えた犯人の独白という部分において、価値を見出し、その人物の社会復帰までの歩みを赤裸々に記した書籍を世に出すことに意味があるという意見もあるだろう。
ただし、この場合は本当にその当事者が執筆しているのか、読者が確認できないと意味がない。
顔も明かさない人物の独白が売れる時代
2015年6月、ある出版社から、1997年に神戸連続児童殺傷事件を引き起こした、元少年Aの著書とされる書籍が出版された。初版は10万部ということだったが、その後も何とか増刷されたということで、売れ行きもそこそこ上々のようだ。
しかし僕はこの一連の出版劇に対しては、なんとも白けてしまう。前述のように、この書籍が本当に元少年Aの著書であるのか、確認する術がこちらにはない。
それなのに、話題性ばかりが告知され、それに踊らされて物事の本質と真贋を確認しないまま飛びつく消費者が、僕の周囲にはあまりに多かった。
そしてこういうとき、僕は「ねえ、なんで少年Aが書いたものだって信用できるの?」と質問するのが常だったが、誰もが返す言葉に窮していた。
まあいい。仮にあの書籍を元少年Aが書いていたと仮定しよう。それを差し引いても、こういうことは言いたくないが、あれだけの事件を引き起こした人間の社会復帰までの道のりを、どうして消費者が金を出してまで知る必要があるのか、これがさっぱり分からない。
事件の動機、更正の模様。そういったものに興味があることは悪いことじゃないけど、それにしたって下品に飛びつきすぎた人もかなりいた。
ああいう消費行動は、出版元にしてみれば喜ばしいものだったことだろう。あれだけ世間を騒がせた大罪人の書籍は、やはり売れるのだということを、実感させたに違いない。二の矢、三の矢は間違いなく撃つはずだ。
出版に対する憤りを見せる遺族に同情
そもそもこういう書籍を出版する以上、被害者遺族に確認を取り、許可をもらうのは当然のことである。ところがこの出版元は、それを怠っていた。
本書が出版されたことが話題になると、遺族が批判の声明を出している。これは当然の考えだろう。被害者の父親は出版元に回収を要求していたが、その声は押し潰されてしまった。
取り扱うこと自体を嫌う書店も少なくなかった。特に惨劇の舞台となった神戸市では、そもそも入荷しない店舗もあったほどだ。
お金の使い道として、この書籍の購入は妥当なのか?
ちなみにこのタイトルを明示するのも憚られるこの書籍、定価は1,620円。最近は何を買うにも高いものだけど、それにしたってちょっと高いように思える。1,600円あれば、あと200円出して映画館にでも出向く方が数倍も有意義だろう。
もしくは、ちょっと奮発してお昼に高級な定食でも食べた方が、確実に心は豊かになる。
言い方は悪いが、こういう書籍を買い求めることで、その売上が誰の懐に入るのかということを、しっかりと考えている人がどれだけいるのか甚だ疑問だ。
話題性の高い書籍となってしまっただけに、一部ではこの本を買占めに走り、ネットオークションで定価以上の値段で出品する者まで現れた。
本当に、上から下までこの国には、金になるんなら何でもやってしまう人間がいることを知らされた。
(文/松本ミゾレ)