ペットと一緒に暮らすことで、私たちの生活はもっともっと楽しく、深みのあるものに変わる。
僕は動物が好きだ。
子どもの頃、縁日でひよこを買ってもらい、立派な雄鶏に成長したときは本当に嬉しかった。
田舎だったので狸が毎晩家族連れで遊びに来ていたが、あるとき皮膚病を患ったそのなかの1匹を引き取って治療し、そのまま完治させて一緒に暮らしたこともある。
現在はやんちゃな白猫と楽しい毎日を送っている。
ペットは家族だ。
一緒にいるとさびしさも感じないし、共に暮らすことで、色んなことを教えてもらえる。
友達であり、先生のような存在だ。
そんなペットを、ペットショップから迎えるという人も多いはず。
僕は選択肢として、それもないわけではないと思っている。
なんだかんだ魅力的な品種はペットショップじゃないと見ることは難しいし、どうしても特定の品種を家族に迎えたいというのであれば、ペットショップを利用することは間違いではない。
一方で、どうしても血統書つきの高額な品種のペットが欲しいというわけでもないのなら、保健所や各地の動物保護施設で新しい家族を探すという手も、活用してほしいと思う。
品種にこだわらないなら、安価で迎え入れるペットも
ペットの殺処分を減らすため、保健所もボランティア団体も、昼も夜もなく活動している。
保健所というとネガティブなイメージを抱かれがちだが、職員さんたちだって人間。望んで命を処分しているわけではない。
可能なら、そんなことはしたくないだろうが、誰かがやらないと、際限なく街に野良犬、野良猫が跋扈し、様々なリスクを生じさせてしまう。
仕方なく、本当に仕方なく処分をしているのだ。
だから保健所側からすれば、処分間近の動物たちを引き取ってくれる一般の人々というのは、まさに神様のような存在なのだ。
1匹でも不幸な最期を遂げることを防げるのだとしたら、それだけでも大歓迎なのである。
引き取るということは、費用もほぼかからない。
簡単な検診、予防接種などは必須だが、それだってペットショップを介して家族を迎え入れるよりは格安で済む。
なにより消え行く命を助ける行為は意義深いものだ。
保護団体から譲渡してもらうのも手
さきほどもちょっと書いたけど、殺処分を減らすためには、ボランティア団体も精力的な活動を行っている。
動物の保護を目的として活動する団体の多くは、保護した犬や猫たちの譲渡会を開催したり、日常的にブログに保護したペットを紹介したりして、里親を募集している。
団体によっては、譲渡のための条件がやや厳しい部分もある(たとえば引き取り希望者が高齢者の場合、最期まで面倒を見られるか、この判断が難しい)が、こちらも費用はほぼかからない。
こういった団体は、保護した動物を、理解ある商業施設に用意された一角に展示して、飼い主を無償で募集していることも多い。
僕は最近、幕張のイオンモールでこういうスペースでのびのびと走り回る子猫たちを見た。
ああいう場所での展示は、大勢の目に留まる。
ペットと人との関係を考える上で、重要な指標になるはずだ。
命に貴賎はない。一緒に暮らせばみんな大切な家族
血統書のあるペットも確かに需要がある。
なんせ見栄えがいい。
値段に見合うだけの価値がある。
ただ、値段など皆無に等しくても、命というものは雑種だろうと病気をしていようと、老いていようと、みんな1つしか持っていない大切なものだ。
そこに貴賎はない。
ペットと暮らすということは、1つきりの命が寄り添いあって暮らすということだ。
そしてそれは素晴らしい発見をいくつももたらしてくれる。
毛皮の色合いだけでなく、その中に息吹く暖かな鼓動を感じることのできる人間になりたい。
(文/松本ミゾレ)