僕が生まれたのは、1984年。
この頃の日本人の平均年収は、厚生労働省の賃金構造基本統計調査によると3,511,300円となっている。
意外に思われるかもしれないが、年収そのものは2000年代初頭まで右肩上がりになっている。ガクンと伸び悩むようになったのは、ついここ10年ほどのことだ。
直近の平均年収は、400万円台前半。
物価は今の方が80年代よりも高いし、消費税も導入されているため、生活は否応なく苦しくなっている。そうなればかつてのように、容易に結婚をしたり、子どもをもうけることも控える必要が出てしまう。
だから現在では、保育園のあり方一つとっても、以前とはやや状況が異なっている。
今の保育園を取り巻く環境には、日本人の余裕のなさが垣間見える
近年、「はてな匿名ダイアリー」で「保育園落ちた 日本死ね」という匿名の投稿が、野党によって国会で紹介され、それをメディアがこぞって取り上げるという自体が生じた。
日本、特に都市部では認可・不認可問わず保育園が不足しており、子どもを預けて仕事をすることが出来ない家庭が多いというのが、このときの主な問題提起だった記憶がある。
この一点だけを見て感じることは、「ああ、今は保育園一つとっても、こうやって国会で問題に上がるんだなぁ」という、漠然とした虚しさだった。
保育園が少ない。保育士が足りない。
その原因は、子どもが少ないこともあるし、後は保育士への給与があまりに少ないことも挙げられる。
一応現政権は、保育士への給与をアップする施策を提示したけど、焼け石に水のような増額で、かえって反感を買っている。
保育士には金が入らず、子を持つ親は預けようにも場所がない。だからどちらにもフラストレーションが溜まり、「日本死ね」となったのだろう。
個人的には「勝手に日本に生まれておいて、国に死ねはないだろう」という気持ちになるが、それは僕に子がないからか。
どの道、この手の問題は手詰まり感も見て取れる。育児の現場には、その国の抱えている問題の本質が出やすいものなのかもしれない。
今の保育園は、親は生活費を稼ぐこと前提で機能している
僕の同級生が、都会で結婚をし、そのまま定住している。現在は2人の子どもを持つ父親だが、そんな彼も、保育園探しには相当苦労したそうだ。
とにかくどこも手一杯で、いっそ地元に帰ろうと思ったほどだ。しかし、そうすると今の仕事も辞めないといけない。家のローンはまだまだ残されている。奥さんも、育児の合間に仕事を続けたいと言っていた。
ふとそのとき、この同級生は「保育園って、いつの間にか生活のためとは言え、親の都合で子どもを預ける施設になっちゃってるなぁ」と感じたそうだ。
こんなことを書いてもしょうがないが、日本もほんの20~30年前は、今ほど核家族化は進んでなかった。ぶっちゃけ保育園に行けないとしても、両親以外にも、祖父母やら近所の親戚なんかが面倒を見ることは可能だった。
だけど保育園は子どもにとっては集団生活の中で我慢を覚えたり、協調性を培うためにも必要な施設。だから、第一に子どもの将来の糧を作るために通わせていた側面が、今よりずっと強かったんじゃないだろうか。
それが今、言い方は悪いが、親が稼ぎに集中するために、その間子どもを預けておく施設になってしまっていると、彼はそう感じていたというわけだ。
個人的にもそう思っている。子どもの学びの場としてよりも、親が存分に働くために保育園があるように見受けられる。
保育園はまだ増やせる!だけど反対運動もある…
いつの間にか日本は、子どもをそういう扱いで保育園に預けなければならないほど貧しくなってしまった。あわせて最近では、保育園建設予定地に「子どもの声がうるさそう」という理由でクレームや反対運動を引き起こす者もいる。
使い古された言葉だが、誰もが最初は子どもだった。その子どもたちが使う施設の建設を反対するというのは、なんとも寂しいものだ。子どもの声がうるさいなら、自分の家で防音対策をするなり、保育園側にもそれをお願いするなりすればいい。
聞けばこの手のクレーム、高齢者から発せられることが多いようだ。歴史上、子どもよりも老人を優遇するような国家、コミュニティに、明るい未来はなかった。日本もいよいよ、お終いである。
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