年収1000万のサラリーマンがゼロからの起業。「熱狂的に生きる」働き方とは?

年収を上げたい        2015年11月02日

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年収1000万のサラリーマンがゼロからの起業。「熱狂的に生きる」働き方とは?

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年収1000万円に到達した人の人生とは

仕事で成功し、年収1000万円を超える――日々仕事に邁進するビジネスマンであれば、大きな目標であることは間違いありません。しかし国税庁の統計によりますと、現在の日本で年収1000万円を超えている給与所得者の割合は4%ほどしかいません。

苦難の末に年収1000万円に到達した人は、どんな人生、どんな努力、そしてどんな考えを持っているのでしょうか。今日はそんな人物の1人にフォーカスし、その正体を探ります。

【プロフィール】

浅井慎吾浅井慎吾(あさい・しんご)。
1976年生まれ
愛知県名古屋市出身。関西大学 社会学部卒業
求人広告代理店でトップセールスになったのち、2005年に“ベンチャー企業1,000社&1万人の雇用貢献”のため、アイ・パッション想業、2006年 株式会社アイ・パッション設立。

大手志向の名古屋で育った幼少期

――今日はどうぞよろしくお願いいたします。私たちHOW MATCHの読者は自分の収入を上げることについて強い関心を持っていまして、実際に高収入を実現している人はどんな育ち方をしたのか、自分とはどう違う人生を歩んできたのか、ということを非常に知りたがっています。そういう点でお伺いしますが、実際、浅井さんの幼少のころはいかがでしたか?

浅井 慎吾氏(以下・浅井氏) : ごく普通の子供でしたよ(笑)。私の育った愛知県はトヨタやパロマ、カゴメなど、大手企業の本社が集結しているんです。だから街全体が大手企業志向で、自分も将来そういう会社に勤めると思っていました。

名古屋は完全に大手志向の街

 

――そうなんですか?じゃあ、父親が経営者だったとか?

浅井氏 : そういうのも全然ないですね。でも、人を大勢誘うのは小学生のころから好きでした。私たちの世代は、学校から連絡網のプリントが配られていましたよね。そこに載っている電話番号に片っ端から電話して、「◯◯くん、遊ぼう~!!」ってサッカーや遊びに誘っていたんです。それで断られてがっかりする。そうしてまた、めげずに次の電話番号にかけるという(笑)。

――そういうお話を伺いますと、今につながる片鱗が感じられますね。プロフィールを拝見しますと、学生のころにバックパッカーで海外旅行に行っていたとありますが?

浅井氏 : 私が学生のころは、ちょうど猿岩石がヒッチハイクしていたころでした。だからバックパッカーが流行っていたんですよね。私もそれに影響されて行きました。行きのエアーチケットだけ買って、あとは成り行きまかせ。最初はオーストラリアに2ヵ月間、それからアジア全般、特にベトナムへは何度も足を運びました。

「働く」とは、「生きる」こと

――どうして何度もベトナムに行ったのでしょうか?

浅井氏 : 先進国であるオーストラリアよりも、アジアの途上国の現状を目の当たりにして、強く興味を感じたんですね。当時、ベトナムは失業率も高く、小さな子供でも当たり前のように働いていました。よくあるテレビの貧困シーンがそこにありました。

レストランに観光客がいて、その観光客の肩をトントンと叩く人がいる。振り返れば9歳の女の子が「お花はいりませんか?」と立っている。そのくらいの年齢の子供でさえ、お小遣い稼ぎではなく、今日を生きるお金を得るために働いていたんです。

そんな姿を目の当たりにしてしまった私は衝撃を受けました。今でもあの時の9歳の女の子の姿が頭に浮かぶこともあります。日本は豊かですから、子供は不自由なく食べる事も学ぶ事もできる。それはもちろん幸せなことですが、「人間は生きるために何をするべきか」という感覚が成人しても育ちにくいのではないでしょうか。

日本人はよく自分の仕事を世の中に活かすという意味で「活きる」と言いたがりますが、当時学生だった私はベトナムで見た少女の「生きる」ための姿の方に、より強いパワーを感じてしまったんですよね。自分の命を削って生きるために「働く」とはどういうことか。それを考えさせてくれるきっかけになりました。

高い買い物を自己投資と見るか、浪費と見るか。

――卒業後はリクルート求人広告代理店に就職したのですね。やはり多忙な毎日を過ごされたのでしょうか。 

自己投資として30万円のPCを購入浅井氏 : そうですね。多忙なのはもちろんです。でも自分は基本的に「仕事は効率よく早く終わらせたい」って思うタチなんですよ。今は仕事でPCを使うのは当たり前ですが、当時の会社からはPCを支給されませんでしたので、自腹で買いました。新入社員の給与が22万だった時代に、30万円の自己投資です。

周りの同僚は手書きで仕事していましたから、時間もかかるし、データ管理も煩雑になりがちでした。私はそんな彼らを横目に「PCを使えばもっと楽に正確できるのにな」って思ってました。

スペックの高いPCを使って仕事をすれば業績も上がり、もちろん給与もアップします。何より、周りからの評価が高まります。つまり自分の価値を高めるための投資ですよね。そうした努力が身を結び、サラリーマン時代に年収ベースで1000万の給料を得る事ができました。

PCにかぎらず、20代のころは「一流のビジネスマンになりたい」という思いが強かったので、「いい車に乗る」「いい服を着る」「一流のレストランに行く」などを叶えるための自己投資は惜しみませんでした。仕事にしてもプライベートにしても上を知らなければ、目指す事もできない。自分にとっては当たり前の考え方でした。

リーマン・ショックによる経営危機

――卒業後はリクルート求人広告代理店に就職したのですね。やはり多忙な毎日を過ごされたのでしょうか。

浅井氏 : サラリーマン時代は、毎日会社に通っていれば月給としてお金が振り込まれますが、自分の会社ともなるとそうはいきません。常に順風満帆とはいえないですね。会社を立ち上げた当初は給料そっちのけで、寝る間も惜しんで働いていました。一番大変だったのは2008年のリーマン・ショックのころですね。

当時、就活情報サイトのパッションナビの開発費や広報・広告費、営業費など全部含めてン千万円の投資をしていました。そこにあのリーマン・ショックです。景気悪化で、どの会社も求人広告を出さなくなってしまった。新卒も5名採用していましたから、彼らを食わせられなくなるかもしれないという危機感もありました。

リーマン・ショックによる経営危機

でもそこから2年、3年とかけて社員と一緒に歯を食いしばって頑張ったお陰で、徐々にV字回復をしてきたんです。

会社の転換期には、社員ひとりひとりと向き合う。

――そのような状況を経て、いよいよ2015年5月にアイ・パッションのビジネスモデルを大きく変更するわけですが。

浅井氏 : 自分自身も40代を迎える年齢になり、人生の折り返し地点。これからの人生を考え始めたときに、「命が尽きる前日まで働きたい」という仕事への向き合い方がより鮮明になりました。セミリタイアとかする生活は考えられない。

しかし、会社を長く続けるにあたって、アイ・パッションには昔から独立志向の強い社員を多く採用してきたのもあり、数年して成長した社員が会社を卒業して独立してしまうと、一時的に売上が落ちてしまうという問題を長く抱えてきました。つまり、人的リソースに頼らないビジネスモデルを確立する必要があったんですね。

そこで「1000社に1万人の雇用創出」というビジョンの実現に近づけるためにも、求人広告掲載の敷居を下げてより多くの企業が導入しやすいサービスを提供するスタイルに転換したんですね。

――すでに社員が何人もいる会社においてビジネスモデルを変更するっていうのは並大抵のことではないと思いますが。

会社の転換期には社員ひとりひとりと向き合う

浅井氏 : 確かに大変でした。自分の意志をきちんと伝えるためと、社員一人一人の「働く」スタンスを改めて理解するために、30名以上の社員全員と面談しました。「これから先は仕事量も増えて帰れない日々が続くかもしれない。でも、会社を拡大させるために、もう一度初心に戻って、一緒に頑張って欲しい。苦労を承知で、残ってくれるか?」とひとりひとりの意志を確認しました。そうして残ってくれたメンバーと、さらに強い絆で結束して、やっていこうと覚悟を決めたわけです。

去ることを決めた社員には2ヵ月間の有給休暇を与えて、その期間で次の仕事を見つけてもらうようにしました。元々が独立志向の高い若手の優秀な社員たちですから、みんな無事に次の職場が決まって行きました。「金の切れ目が縁の切れ目」と世間では言われますが、私は何より人と人の縁を大切にしています。

会社を去る決断をしたからといって、彼らと縁が切れることはないですね。一緒に事業を作ってきた仲間ですから、今でも会って飲んだりしています。アイ・パッションでは「ヒトとの出会いを大切にし、ヒトの成長を実現し、ヒトの夢を叶える」を経営理念にしていますが、次の職場でもその姿勢を忘れず成長し続けてほしいですね。

残ってくれたメンバーは、さらに団結して、ひとりひとりの活躍の場が増えました。優秀なインターン生も集まってくれ、全国で30名ほど活躍しています。アイ・パッションの想いに共感してくれる人であれば、その強みを活かして活躍してほしいです。海外からの人材採用も考えています。

――それこそベトナムからの人材採用とかもありますか?

浅井氏 : 私が1999年当時に見た、お花を売っていた9歳の女の子は今25歳になっているわけです。小さくても体当たりでビジネスを学んでいた。そんな経験をした彼らは、日本で仕事をしても必ず力を発揮してくれると思いますよ。

対価である報酬が、さらに自分の仕事の質を高める

――サラリーマン時代に、年収1000万円を超える収入を得たとのことでしたが、お金を得た経験をしたからこそ思うことってありますか?

浅井氏 : 新卒で入社した直後に比べたら、背伸びをしなくても外食はできるようになりましたし、自分の両親には高額の人間ドックを受けさせてあげるなどの親孝行もできるようになりました。とはいえ、今との比較で考えると20代の頃に比べると物を所有するという欲がなくなったのもあり、それほど生活レベルは変えていないですね。どちらかというとご縁を大切にするために、人と会うための食事代や、経営者仲間との旅行費に使ったりことが多いです。普段の生活でそういう選択ができるかどうかが大きいですね。

よく「お金なんていらない」という話も聞きますが、自分のやりたいことを達成するためには、自己投資も必要です。新しい学びを得るための書籍やデバイスを買ったり、様々な新しい体験をするためにも少なからずお金はあった方がいいと断言します。良い仕事をした対価としてお客様からお金をいただくということは、「さらに良いサービスを作ろう」というモチベーションややりがいにも繋がっています。

――いま「対価」と言いましたけれども、そういう価値観はいつごろからあったのでしょうか?

浅井氏 : 小さいころからあったかもしれません。私の両親は掃除、洗濯、食器洗いなど、家の手伝いをきちんとやらせる人でしたから。そういう教育はしっかりされた方だと思いますね。手伝いをきちんとやっていればサッカーのスパイクとかを買ってもらえたりしましたね。自分が熱中することに対しては投資をしてくれる家庭でした。その代わり、ファミコンとかは買ってくれませんでしたが(笑)。

今でも自宅で家事はかなり積極的にやりますよ。私の妻も同じく忙しくて帰り時間が遅いので、私が早く帰った日には、掃除洗濯やゴミ捨てをしています。

生涯を通して、人と人を繋げていきたい

――年齢的にもビジネス的にも折り返し点で、まさにこれから!ですね。仕事のお話ばかり伺ってしまいましたが、趣味とかにお金を使ったりはしないのですか?

浅井氏 : お金がかかる趣味はこれといってないですね。さっきも言いましたが人と会うことでしょうか。やっぱり経営者とかエネルギーのある人と一緒にいるのは学ぶ事も沢山あり、実際楽しいのでそういう人たちとの時間を大切にしています。

生涯を通して人と人を繋げていきたい

仕事だけの繋がりではなく、社長だけが集まったサッカーチームを作ったり、洋楽のハードロックをやるバンドを組んだり。ライブは300人集めて盛大にやりました。

私の性格もありますが「いつも主役でいたい」というよりは誰かをサポートしたり、繋げ役が多いですね。サッカーのポジションでもボランチ(中央のポジション)ですし、結婚式の二次会の司会とか、何かの集まりの幹事だとか。そういうことが本当に好きなんですよ。きっと、一生そういう役回りをやってると思います。きっと、自分が死ぬ前でも病床に来た人同士を引き合わせてあげたいと思ってるんだろうなと(笑)。

インタビューを終えて

本当の意味で自分のやりたい仕事に邁進している人というのは例外なく目が輝いています。今回の浅井慎吾さんも例外に漏れず、次から次へと自分自身の来し方行く末についてフランクな語り口調で語っていただきました。

「自分のやりたいことをやって、高い収入を得る」――仕事人にとって、これほど夢のような話はないでしょう。しかし、そういう人は「収入はあとから付いてくる」と必ず言います。本当でしょうか?達成した人は何とでも言えるからじゃないでしょうか?

今回の浅井慎吾さんは、学生時代のバックパッカーで体験した9歳の少女が働く姿に衝撃を受け、そこから「活きる」のではなく「生きる」という人生に影響を受けて今にいたっています。

では、あなたもバックパッカーをして海外に行けば人生変わるのでしょうか?必ずしもイエスとは言えません。もしかして、あなたの人生を変えるほどの衝撃を与えてくれることは、今日、同僚から聞いた何気ないひとことや、昨日にふと本屋で出会った一冊の本なのかもしれません。

(取材協力:株式会社アイ・パッション)

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HOW MATCH編集部
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